ポジティブな発言の難しさ

仕事をしはじめて、ポジティブな発言というのを求められている。 前向きで、明るいコメント。 何かを褒める言葉。 これがなかなか難しい。

もちろんそれっぽいことは言える。 問題はそれが嘘くさくならないことだ。 どうしても嘘くさくなる。 人間的な問題というのもあるが、基本的には誰が言ってもくさんくさいものだと思う。 テレビのグルメレポーターが「美味しい!」と言っていて、 「ああ、あの店は美味しいんだ!」と素直に思う人間がどのぐらいいるだろうか。 逆に「あの店で一回食事したんですが、あまり口に合わなかったですね」と言っても、 「そんなこと言っても実は美味かったんだろ?」とはあまり思わないはずだ。 ホントにまずいかどうかはともかくとして、そのときその発言者がそう感じたんだろうな、というのは信じる。

なぜポジティブな発言は、嘘くさくなってしまうのか。 いくつか要因を考えてみた。

日本には褒める文化がない

日本に限らず、中国の儒教文化に影響が強いと、褒める文化がない。 「論語」にも「巧言令色鮮し仁」と書かれているように、 むしろ褒めまくる人は軽薄であると見なされることが多い。 あやしい自己啓発とかあやしいベンチャー企業とかはやたらと人を褒めるけれど、 まともな組織であればそんなことはない、という雰囲気がある。

アメリカ的な文化圏だとけっこーそんなこともないのではないかという気がする。 スタンディングオベーションで賞賛したり、野球の監督も選手を褒めたりする。 「お世辞」というのが文化的に扱いが違うっぽくて、 ちゃんとしたお世辞が言える人間が、ちゃんとコミュニケーションがとれる大人の人間として扱われているのではないかと思う(知らんけど)

出る杭を打つ文化

日本には出る杭を打つ文化がある。 そのため褒めることで、相手を出る杭のようにする場合がある。 なので、褒められた相手も「いやいやそんなことないです」と自分を卑下しなければいけない。 「私は出る杭ではないのです。 あなたたちと同じ高さの、なんでもない杭なのです」 と言わなければいけない。

陰湿な京都民は、相手を批判したいときに、相手を褒めるらしい。 「えらい立派な帯どすなあ」と言われたら、 「帯、派手すぎて悪趣味やで」という意味らしい。 京都の人間が、本当に立派な帯で褒めたいと思ったときはいったいどうするのかはわからない。

批判する方が論理的に楽

批判が強くなりがちで、称賛が弱くなりがちなのは、論理的な弱さによるものだと思う。 何かを批判したい場合、その論理的な根拠は一つで良い。 「人を殺す場合があるから、飲酒運転は悪い」など。 逆に「◯◯はよい」という主張は、多くの反例を潰さないといけない。 「Suchmosはいいバンドだ」という主張をしたくても、 「雰囲気が嫌い」とか「神奈川出身なのに田舎者感出しすぎてムカつく」とかいう批判を潰さなくてはいけない。

冷静に考えると、批判とか悪口とかもすべての反例を潰さなくてはならないんだろうが、多くの場合許されがちな気がする。

教育で批判的思考を学ぶ

大学に入って、教授が強調しがちだったのが、「批判的精神の重要さ」だった。 日本のインテリは「筋の通った批判できる=知識人」みたいな空気がある。

「イジる」コミュニケーションスタイル

あとあんまり人を褒めても面白くない。 人の変なところを指摘して、笑いをとったほうが雰囲気が良くなるし、親密な感じがする。

褒められるような行為をすることはそんなにない

ノーベル賞とったり、野球で勝ち投手になったり、 テストで学年一位になったりすれば、それはさすがに褒められるだろうけども、 人間普通に生きているとそんなに褒められるようなことはしない。 普通に仕事してるだけだと、そんな褒めるようなケース自体がない。

特に会社で部下を褒めるとなると、ここが難しい気がしている。 大きな功績をあげてるなら褒めやすいが、ルーティンワークをきちんとこなしたとか、 地味だけど会社組織としてけっこー大切なこととかは褒めづらい。 無理やり褒めても「お、おう……」みたいになりがちである。

まとめ

そんなわけで、人を褒めるのは難しいという話でした。

(了)