賢く生きることを放棄する

2019年ぐらいから生き方を変えて、文字通り想定外の年となった2020年を経て、2021年の今、自分に最適な生き方について言語化できそうなので、書いてみようという記事です。このネタは、年末年始に書こうと思ったものを、二ヶ月の間放置して、それでもやはり書こうと思ったものです。なぜやはり書こうと思ったかというと、今後数年における僕自身に対するマニフェストになるかと感じたからです。

賢く生きる = マクロ環境の中で最適解に近い選択肢を取り続けること

ここで言う賢く生きるをもうちょっと詳しく書くと、マクロ環境の中で最適解に近い選択肢を取り続けること、と言えます。マクロ環境と呼んでいるのは、政治経済国際社会などを指します。たとえば自分の国がN%の経済成長するとか、逆に大恐慌が起こるとか、戦争が起こるとか、感染症のパンデミックが起きるとか、そういうことですね

学生の頃は特にそうでしたが、世の中にある選択肢を全部把握してから、ベストなものを選びたい、という気持ちがありました。最小のコストで、最大の成果が得られるような選択肢です。そのために経済学を専攻して、自分なりに社会のことを学んできました。

学校や本だけでなく、インターネットからも多大な影響を受けました。更に実際に出会った人間からはもっと大きな影響を受けているでしょう。これについては誰からどんな影響を受けているのか、自分でもはっきりわからない部分です。

最適化問題ではない

大学の高等教育を受けて、その後数年間社会で実践した後の結論です。マクロ環境は絶対に読めない。これはどんな学者も認める、真実だと思います。ある程度の予測は効きますが、結局いつの時代も想定外の事態は発生します。

「賢く生きる」というのは、経済学の最適化問題を解くことに似ています。学部レベルのミクロ経済学だと、予算制約式があって、それをもとに効用や利潤の最大化問題を解きます。現実にこんなことができたらいいでしょうけど、できません。

僕は計量経済学のゼミに入って、理論を現実に適応する、ということを相当やったのですが、主な課題は

  • 必要となるデータがない (集計されてない、利用できない、分析可能な形で整理されてない、など)
  • 変数が多すぎる
  • 有効な理論モデルがない (あるいは自然科学のレベルで一般的に成り立つモデルをつくることが社会科学だと不可能なのかも)
  • というところでした。

    世の中にある選択肢が全部把握できない

    もちろん僕もそこまで理論バカじゃなかったので、経済学をそのまま現実に適用できるなどということは期待していませんでした。どちらかというと年上の人の経験談やインターネットの情報を参考にして、自分の選択をしてきました。

    「世の中にある選択肢を全部把握してから、ベストなものを選ぶ」の前提となる、「世の中にある選択肢を全部把握する」というところ。

    インターネットがあれば、なんとなくできそうな気がしていましたが、これがとんでもない。できません。もちろん100%じゃなくて、80%ぐらいは把握できるんじゃないかと思っていましたが、到底無理でしたね。

    地球儀を想像するとわかりやすいと思います。日本という国があって、日本だけをきちんと知るのも大変ですが、地球上にはたくさんの国があります。言語も文化も気候も歴史も全然違う国です。

    更には国には人が住んでいます。その人間一人一人が色んなことを考えて、行動しています。その中にはけして僕が理解できない考えを持っている人もたくさんいるでしょう。

    自然だって、研究対象にしたら、一生研究できます。熱帯のジャングルの奥地、砂漠の真ん中、深海の底、北極や南極、行ったことのない場所はいくらでもあります。

    ここまでの要素なら、実は広さと深さなので、理解対象は二次元っぽく解釈できます。無限に膨張する宇宙は対象外という前提をおけば、対象は地球の上だけに限定できます。地球儀の上に研究対象のヒトとモノが大量にあって、それらの対象に理解する深さがある。

    膨大ではありますが、アプローチを工夫して進めていけば、いつか理解できるのではないか? と思います。もちろん現時点で一人の人間の人生では不可能な大きさにはなっています。そして、更にここに時間という軸が加わると、二次元だった理解対象は三次元になります。仮に2020年の深海のことを全て解明したとしても、それは深海(2020)を解明したにすぎず、では深海(2021)はどうなっている? また深海(0)はどうだったのか? と過去と未来の話が出てくると、それはもう全人類で研究しても、解明することは不可能になります。

    マクロ環境は読めない

    深海がどうのこうのというのは、すこし大きい話になりましたが、一人の人間の職業選択においても同様です。

    「あの選択が正解だった」と真に言えるのは、長い時間がたって、色んな情報が出そろって、しかもそれを理解できる人間がいて、はじめてそのときが来ます。よく人生とゲームが似ていると言われますが、ゲームの場合は世界の枠が決まっています。最近のゲームは、カセットで発売されたら後は変化がなかった昔と違って、発売後にもアップデートが入るので、より人生に近づいていますが、それでも現実の世界の枠のなさは我々を苦しめます。

    人生の「読めなさ」について、芥川龍之介はこんな風に書いています。

    人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況いわんや針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈である

    我々の人生の苦しみは、自分の運命の読めなさにほとんど起因しています。それでは、このマクロ環境の読めなさに対して、我々はどう向かい合うべきでしょうか?

    コンサルタントになる

    「我々」と言ってからなんですが、「僕」の話をします。僕が以前働いていたシステム会社で転職を考えたとき、大きくわけて三つの道がありました。

  • 同業他社に入る
  • コンサル会社に入る
  • Web系企業に入る
  • 上から順に、転職としては楽なものです。同業他社に行くのは、仕事は同じことをしたいが、人間関係や昇進の問題で辞めたい人の進路で、僕の場合、人間関係や昇進には満足していたけれど、仕事の方を変えたかったので、最初から考えていませんでした。

    多くの同期はコンサルタントになることを選びました。今もそうなのかは知りませんが、当時は外資系コンサルがITに関わる案件をたくさん受注していて、国内企業の元SEを大量採用していました。

    Web系企業の仕事をしたい人は多かったと思いますが、スキル的に厳しいのと、給料が下がるので、実際に選ぶ人はほとんどいませんでした。

    僕は新卒(二周目)ではコンサルも結構受けてましたが、社会人になって働くうちに価値観が変わって、コンサルタントには絶対なりたくないと思うようになりました。コンサルになってれば、給料も上がって、今までのキャリアもそこそこ活かせたでしょう。

    競争から守られる

    コンサル企業は、コンサルではない企業のことを事業会社と呼称します。よく批判されることではありますが、コンサルは自分たちがコンサルタントした会社の事業が大失敗しても責任は取りません。つまり美味しいポディションなんですね。

    前述の「マクロ環境の読めなさとどう向き合うか?」という問題の一つの解法がここにあります。

    つまりマクロ環境の変動を誰かに受けてもらって、自分はそこから離れた位置で生きることです。いや、もちろん正当化する理屈はたくさんあると思います。「全体を見るにはステイクホルダーではない第三者的存在であることが必要」「コンサルタントは医者のようなもので、医者の手術失敗を責めるべきではないのと同じように、コンサルタントの失敗を責めるべきではない」「コンサルタントに嫉妬しているなら自分もコンサルタントになればいい」などなど。

    競争に晒されるプレイヤーの「上」から、競争から守られた状態にいられるポディションという関係が、事業会社とコンサルタントですが、実はこの関係は世の中たくさんあります。思いつく限り列挙してみましょう。

    マネージャー - プレイヤー ————————-————————- 監督・コーチ - スポーツ選手 大手企業の経営陣 - 現場の部署 投資家 - 起業家 先生 - 生徒 師匠 - 弟子 マネジメント会社 - 芸能人

    この関係性のポイントは、マネージャーサイドは「常に勝ち馬に乗る」戦略がとれるところがポイントです。コンサルの例で言えば、利益を出し続ける会社とだけ付き合って、利益を出さなくなったら契約せず、また別の勝ち馬を探すということができます。もちろん、実際はコンサル会社側もたくさんあるので、その中で選ばれるコンサルにならないといけない大変さはあるので、そんなに簡単にはいきませんが、大手有名コンサルとして地位を確固たるものにすると、こんな感じの戦略がとれると思います。

    (コンサル行った同期の話聞く限り、彼らもまた組織内部では一人のプレイヤーサイドではあって、競争から晒されてるのですが、それはまた別の問題とさせてください)

    早すぎる隠居の弊害

    競争社会にうんざりして、プレイヤーから上がって、早くそういう「美味しいポディション」につきたい、という気持ちは、僕の場合なぜか学生時代の方が強かったように思います。大して競争した訳でもないのに、不思議なことです。

    ただ会長職やコンサルタントみたいな隠居ポディションにつくのは、通常その人間がプレイヤーとしてピークを過ぎた、ということでもあります。

    米テック業界ではFIRE(Financial Independence, Retire Early)という選択肢が2010年にムーブメントになったそうです。アメリカは日本以上に競争が苛烈なのと、テック企業の給料がとにかくいいのと、株価が上がりまくってたので、上手くやれば一生分の給料は稼げたでしょう。

    ただ、競争に晒されることは、肉体的にも精神的にも辛いことではありますが、その対価としてスキルの上昇とアウトプットの獲得という二つの報酬があります。「若い頃すごかったけど、今はただの中年」みたいな存在になるのは、僕にとってはすごく怖いことです。

    誰も彼もがコンサルタントになりたがる

    僕が前にいた会社では、本当に誰も彼もがコンサルタントになりたがっていました。社内では閉塞感がありましたが、外資系コンサルはもうちょっとワクワクする仕事ができそうな感じもありました。それでいて給料も上がって、キャリアアップ的な感じもあって、転職する人は多かったです。

    もちろんその手の人はもう日系企業いた頃からプログラミングなんてしてなくて、上流工程という名の事務仕事をやってたように思います。もちろんそれはそれでスキルなので、否定はしませんが、IT業界にいるのであれば、一種の逃げであるように僕は感じます。

    ダメなコンサルタントと、ダメなソフトウェアエンジニアを比べてみるとよくわかると思います。最低レベルを考えてみます。「コンサルなのにドキュメントも汚くて、喋りも何言ってんのかわからない」な最低のコンサルなのに対して、「スキルが足りてなくてつくったソフトウェアがバグだらけで使いものにならなくてダメ」なのが最低のエンジニアでしょう。

    もう一つ上のレベル。「キレイなドキュメントと流暢な喋りでご大層な計画を話してるけど、いざつくってみると全然ショボいソフトウェアになった」「ダメ」というよりは「よくない」ぐらいのレベルでしょうか。こういうコンサルタントはそこそこいる気がします。そういう意味では普通レベルなのかもしれません。対して、よくないエンジニア。「最低限動くけれど、ショボいソフトウェアしかつくれない」

    これはもう完全に僕の価値観ですが、後者の方が圧倒的にマシだと思ってしまいます。

    僕の経歴で言うと、自分で手を動かすポディションというのは、あまり賢い選択ではなかったでしょう。賢く生きるのであれば、かつての同期みたいにコンサルになって、激務高給の道を選ぶのが良かったのかもしれません。

    ここは一つのターニングポイントだったように思います。僕はそこで賢く生きることを放棄しました。

    当時の僕のプログラミング技術は今思うとひどいもんでしたし、年齢的にももう若くはなかったですが、それでも「俺はもっとできるはずだ。もっとすごいものを生み出せる」という気持ちだけで、ソフトウェアエンジニアとしてキャリアチェンジしました。

    たいまつを持って暗い洞窟を歩く

    実際ソフトウェアエンジニアなってみて、思ったよりできた部分と、できなかった部分両方あるので、はっきりしたことは何も言えません。自分の中で正解だったとは思ってます。

    ただ、僕の人生を十年後、二十年後に振り返ったとき、間違いだったことに気づく可能性はあります。しかし、結局迷った二つの道を両方進んでみて、その結果で比較してみないとわからないので、僕の人生が一つしかない以上、選ばなかった別の道は結局のところわからないんですよね。

    その感じはドラゴンクエストで洞窟に入ったときに、たいまつの光だけで進んでいるあの状況によく似ています。

    【ドラクエ1】ドラクエ1初プレイ時の思い出 - DQフリ ドラクエファンサイト

    【ドラクエ1】ドラクエ1初プレイ時の思い出 - DQフリ ドラクエファンサイト

    思い出深いゲームってたくさんありますけど、やっぱりドラクエ1プレイ時の思い出は大切にしていきたいですね。 なんていったて、記念すべきドラゴンクエストの第一作ですから!当然たくさんの頓珍漢な思い出があります。これを読んでいるあなたにも、ぜひわかるわかる~と思ってもらえれば幸いです。

    https://www.dq-free.com/entry/2019/05/26/%E3%80%90%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A81%E3%80%91%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A81%E5%88%9D%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E6%99%82%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA

    ゲームだったら攻略本買って、全体マップが見られます。全体マップを見ながら歩けば、なんてことはない道に見えることでしょう。「結果論」とか「後出しジャンケン」とか「傍目八目」とか「事後諸葛亮」とか色んな言葉がありますが、後からだったり外野からだったりしたら、簡単に言えますが、いざ当事者になってみると何もできない自分がいるわけなんですね。

    自分で手を動かさないで、上や外からガヤガヤ言い続けている人は、時にこのことを見失ってしまいます。いつの間にか外野席でプロ野球選手に「そんな球俺でも打てるぞ!」とヤジ飛ばしてるおっさんになってしまいます。競争から守られていることは、自分のプライドを守ることにもつながります。

    賢く生きることを放棄する、というのは思考放棄とは違います。自分がたいまつを持って洞窟の中を歩いていることを認識して、その中で勇気を持って道を進んで行くことです。

    手を動かしていると、常に無能感と隣り合わせになります。逆に手を動かすことを放棄すれば、全知全能でいることができます。しかしその無能感と向き合って、克服していく道を僕は選びました。そういう意味で、やはり賢くはない気がします。

    「何が目的なのか?」と改めて考えると、明確に一言では言えないです。「子供の頃からプログラマーになりたい夢があった」とか、「父親がプログラマーで、強い影響を受けたんだ」とか、そういうわかりやすいものがあれば良かったんですが、そういうのはないです。

    ただ自分の価値観と自分の行動が合っている、今の状況はすごく気持ちがいいと思っています。今までの人生で一番いい状態にあるんじゃないか、と真剣に思っています。

    マクロ環境を読んだり、操作したりすることが不可能な以上、全ての中心になるのは自分の価値観でしょう。マクロからミクロに集中する、というのがここ数年の僕のテーマになっている気がします。

    学問を習得することは、たいまつのあかりを大きくしてくれて、暗い洞窟の視界がすこしクリアになりました。学問の価値というのはきっとそういうところにあるのでしょう。そして今は実際に洞窟の中を歩いている、という状況に来ています。

    終わりに

    転職前後にあった、自分の人生を変えるんだというアドレナリンはだんだん沈静化してきました。すると、賢く生きようとする自分がまた出てきます。

    「文系出身なのに、ここまでやったんだから十分じゃないか」「俺よりもっとできる人間はたくさんいる。そういう人間を率いてチームをつくったら、きっと上手くやれるはずだ」「今の待遇で満足か?」

    自分のスキル的な意味で、成長の壁を感じるときは何度もありました。そういうときに、「諦める」という言葉が頭に浮かびました。

    自分の限界だけじゃなくて、外部環境要因でモチベーションが落ちることもありました。自分の頑張りが正当に評価されないと感じたり、成果物がお蔵入りになったりもしました。特に2020年はリモートワーク中心になって、全然環境変わって、そこに適応しなきゃいけなくもなりました。「飽きた」と感じたこともあります。

    けどやはり僕は賢くない。もっとすごいものをつくって、残したいと思う。あわよくばそれが大ヒットして、歴史に残るものになるかもしれない。そこまでいかなくても、挑戦を続けたい。今年ダメなら来年、来年ダメなら再来年を見苦しく続ける。

    もうとっくに息切れはしているし、「夢」なんていう言葉で表されるようなキラキラした思いもありません。時々自分がハムスターの回し車を回し続けてるような感覚になります。

    でもしかし、汗ダラダラかいて、息をはあはあ切らしながら、「もうダメだ……」という感じの自分の方が、妙に賢く生きている自分よりも好き、というのが結局は全てなのかもしれません。

    上澄みだけをすくっている連中よりも、実際に手を動かしてる奴が偉い、という価値観は忘れずにいたいです。

    どうしようもなく疲れたときは休んで、また復帰して、とにかく長く、ずっとこの生き方をやれたらいいと思います。その長いマラソンの中で、何か一つでも、自分の人生の代表作をつくれることを願います。

    (了)